第一次大隈重信内閣

第一次大隈重信内閣は議会が騒ぎに騒ぎ立てて明治政府から妥協を引き出して成立した内閣と言えます。

ただし、日本の憲政史上初の政党内閣と位置付けられることに意義を見出すこともできますし、初の非薩長内閣という意味でも評価できるかも知れません。非薩長で冷遇されていた人たちは喝采したかも知れません。

しかしながら、政党内での足の引きずり合いに忙しく、目ぼしい成果を挙げることのないままこの内閣は短命で終わってしまいます。大隈重信の進歩党と板垣退助の自由党が合併して憲政党という巨大な政党をいったんは作り上げますが、主としてポスト争いが要因となって旧進歩系と旧自由系の間で亀裂が生じます。首相の大隈系より内相の板垣系の方が人数が多いので、板垣系は現代風に言えば与党内野党で、大隈はいきなり少数派閥の領袖みたいな感じになっていきます。なんだか今とあんまり変わらない感じです。

「おしとおる」のニックネームを持つ星亨が外相のポストを得られなかったことで大隈重信を降ろしにかかります。尾崎行雄が「日本がもし共和政治の国になってもアメリカみたいに人徳のある人が大統領になるのではなく、どのみち財閥の大金持ちが大統領になるだろう」とおそらくはリンカーンを念頭に置いた演説をしたことが「不敬になる」という言葉の綾的な揚げ足取り的批判を浴び、尾崎行雄が文相を辞任。星亨が憲政党の分裂工作に走ることで、こりゃもうだめだと数か月で大隈重信内閣は瓦解します。

権謀術策と金権とポスト争いという見事なまでに悪い部分がばーっと見えて来る歴史の一場面とも言えますが、なんとなく星亨が小沢一郎さんに見えてきます。

この辺りまでの経験から、議会が政権の味方をしなければ政策は通らない、即ち議会がどうであろうと内閣は内閣だとする超然主義は通用しないということが分かってきたことにより、事実上首相の指名権を持つ元老は議会の第一党の党首を自動的に首相に推薦するという「憲政の常道」が確立していくことになりますが、議会政治はその後も権謀術策の歴史が続きますので、憲政の常道を始めた当の本人である西園寺公望が後には議会の工作に嫌気がさして議会人以外を首相に指名するようになり、憲政の常道は概念としては今も生きているとは言えますが、実質的に有効に運用された期間はそんなに長くはありませんでした。

確かに書いていてもうんざりしてしまいそうな展開だったわけですが、大隈内閣の次に誕生した第二次山県有朋内閣では、再び超然内閣を目指します。それを山県有朋の個人的な権力に対する意見や感じ方、性格などの面から説明することも可能でしょうし、実際に政党政治家に政治をやらせてみたらうまくいかないということが証明されたことで、その反動が起きたと説明することも可能かも知れません。

広告



広告

関連記事
第三次伊藤博文内閣
第二次松方正義内閣
第二次伊藤博文内閣

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください