西南戦争の影響

西南戦争は普通に考えて成功する見込みのない戦いを西郷隆盛が挑んだとされており、私もその通りだと思います。反乱や革命はスピードが命です。正規軍に反撃する時間を与えずに世の中をあれよあれよと変えていかなくてはいけません。戊辰戦争を乗り切った西郷隆盛はそのことをよく知っていたはずですで。西郷軍はのんびりと動いています。西郷本人に勝つつもりがなかったと考えるしかありません。

西郷たちは決起した後にまっすぐに関門環境を目指し、なんとか船を調達して本州に渡り東京を目指すか、それともまずは熊本鎮台を目指すかのどちらかにするかという話になった時に、熊本鎮台をまず攻撃することを選びます。その理由としてはおそらく船を調達する見込みが立たないということが大きかったと思えますが、熊本鎮台のようなところを攻めたところで意味はなく、東京の新政府に準備する時間を与えるだけですので、西郷隆盛はもろもろ分かったうえでそっちを選んだと言えるかも知れません。価値を目指すつもりは最初からなくて、暴発してしまってどうにもならない立場になった薩摩士族たちと一緒に死んでやろうというある種の慈愛であり、新政府軍に実戦の経験を積ませ、勝たせることで時代の変化を日本人に示すという効果も考えていたかも知れません。戊辰戦争の時、徳川慶喜の首を獲ることで時代の変化を分かりやすい形で示そうとした西郷隆盛ですが、十年経って、慶喜の身代わりを務めたということも言えなくもなさそうです。

西郷軍は熊本鎮台のある熊本城を包囲しますが、守備をしていた谷干城がよく守り、意外と簡単には落ちません。そうこうしているうちに山形有朋の新政府軍が九州に上陸します。新政府軍には兵站があり、兵員も火器もどんどん補充できますが、西郷軍はそういうわけにはいきません。弾を使えばそれだけ弾が減るだけです。兵隊が死ねば、それだけ数が減るだけです。下関を目指す前に熊本鎮台を落とそうと選んだ時点で負けたも同然と言えます。もちろん西郷は分かってそうしていたはずです。

田原坂の激戦はつとに知られていますが、西郷軍はここで新政府軍をかなり困らせます。まず坂の上の方を獲っているので銃撃がしやすく、また新政府軍の兵隊は徴兵された素人ですので戦意に乏しく、いざ接近戦となると逃げてしまいます。当時は戦争の主力は銃撃に移っていましたが、銃はそもそも相手が遮蔽物の向こう側に隠れると威力を発揮しませんので、敵のせん滅を狙う場合は接近戦に持ち込むほかはなく、接近戦になった場合は銃を構えている間に相手が斬りかかってきますので、当時はまだ最後は斬り合わなくては勝負がつきません。斬り合いになると薩摩士族はやたらと強く、新政府軍の兵隊は逃げるというのが繰り返されたようです。

山形有朋としてはここで鮮やかな勝ちを収めて徴兵制度の効果を世に知らしめたいところですが、ここはとうとう音を上げて抜刀隊に頼ります。警察官を主力にした抜刀隊は元会津藩士の子弟が多く、仇討ち好機であると大いに士気が上がったといいます。前方から新政府軍が銃撃し、側面から抜刀隊が斬りこむという作戦で西郷軍は敗走せざるを得ず、さ迷うようにしながらやがて鹿児島まで帰り、包囲されて最期を迎えます。

この時のことが新政府軍にとって教訓になり、逃げない兵隊の養成に主眼が置かれるようになります。宣伝と養成は大きく効果を挙げ、日露戦争の時の旅順戦のように効果のあまり期待できない突撃戦が正式な採用に採り入れられたり、最終的には太平洋戦争で現場の兵隊に過大な負担を科すような事態に至ります。途中から軍がある種の虚栄によって自縄自縛していったのではないかと私は思います。

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