徳川家康と豊臣秀吉

豊臣秀吉にとって、その晩年に最も重くのしかかったのは徳川家康という存在ではなかったかと思います。織田信長が生きていた間、秀吉は信長の家臣で、家康は信長の同盟者ですから、家康の方が格上ではありましたが、同時に信長に認めてもらうための競争者であり、信長の死後、秀吉は清須会議を経て政権を確実なものにしていきますが、その過程で彼に立ちはだかったのが他ならぬ徳川家康でした。

徳川家康は織田信雄と連合し、秀吉を政権の簒奪者であると非難し、北条氏や毛利氏への協力も仰いで秀吉包囲を固めていきます。清須会議の際に秀吉に抱き込まれた池田恒興が秀吉の側につき、戦いは8か月に及ぶ長期戦で、膠着状態が続きますが、長久手の戦いで池田恒興が戦死し、秀吉は窮地に立たされます。劣勢を挽回するため、秀吉は家康との衝突を諦めて家康が担ぐ織田信雄の伊勢を攻め上げ、信雄は単独講和に踏み切り、家康は梯子を外された形になってしまいます。秀吉の戦略勝ちと言えます。

その後、家康と秀吉の間で和解が行われ、家康が秀吉に臣従するという形式でことが収まりました。しかし、戦闘そのものでは家康が勝っていたという事実は誰もが知っていることですし、じゃあもう一回やるかという時におそらくは勝つ自信がなかったのでしょう。家康に何らかの処分が下されるということはありませんでした。秀吉としては恐るべき家康が譲歩してくれたというだけで満足するべきだと考えたのかも知れません。

その後秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼし、家康を三河から江戸へ国替えをさせます。京都から少しでも遠い所に家康を追放するという狙いがあったことは間違いのない事と思います。秀吉は家康の江戸建設に落ち度があれば難癖をつけて家康征伐ということも狙っていたという話もありますが、もし難癖をつけるのであれば、なんでもいいので理由を見つけて言いがかりをつけて戦端を開いていたでしょうから、秀吉は小牧長久手の戦い以降は家康には勝てないと観念していたのではないかと私は思います。

小田原攻めの前に近衛前久の猶子となって関白職を得て「天下人」になった秀吉は、上昇志向の性格を変えることができず、外へ関心を向け、明征服、その通り道としての朝鮮出兵という完全に無意味なことにエネルギーを費やします。もし私が秀吉のアドバイザーだったら、朝鮮出兵にかける多大な情熱とリソースを家康潰しに使うべきだと提言したと思いますが、秀吉がそうしなかったということは、やはり、家康のことが怖かったのでしょう。家康もそれが分かっていたので、後はじっと秀吉が死ぬのを待つという戦略をとったわけです。秀吉毒殺説があり、秀吉の朝鮮侵攻で迷惑していた李朝が秀吉暗殺を仕掛けたみたいな話を聞いたことがありますが、家康が秀吉を毒殺していても全然おかしくなく、家康は後に李朝との関係改善に努力しますが、両者が協力して秀吉を狙ったということがあったとしても不思議ではありません。完全に想像ですが。

秀吉が亡くなった後、秀吉の危惧した通りに歴史は推移し、やがて長い泰平の江戸時代に入ります。政権交代や下剋上などのダイナミズムを奪い、外国からの影響も排除することで安定指向の時代が作られていくわけですが、幕末になって日本は西洋を事実上無視していたことのつけを払わなくてはいけなくなります。安定した江戸時代が良かったのか悪かったのか、やはり何事も禍福は糾える縄の如しということかも知れません。

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