嫌いな人を愛する

生きているとどうしても嫌いな人に出会います。学校や職場に嫌いな人がいて、しかも何らかの理由で協力しなければいけない立場になることもあります。もし、過去のいきさつにひっかかることがあったから嫌いだとすれば、話し合ってそのことに決着をつけるとか、或いは相手が謝ってくれたらそれで赦すとかそういうことができますが、謝らない場合もあります。逆切れされてむしろ悔しい思いをすることもあります。更に言えば、生理的に嫌いな場合、どれほど努力してもやっぱり嫌いなものは嫌いですから、どんなに自己暗示をかけて「あの人は良い人だ。僕はあの人のことが好きだ」などとやってみたところで、かえって自分の心に嘘をつき、自分を苦しめてしまうことになってしまいます。人によってはもう無理…と思って職場をやめてしまうこともあると思います。嫌いな人のために自分が転職リスクをとらないといけないなんて、馬鹿馬鹿しすぎて本当に残念な気持ちになってしまうかも知れません。

私個人は嫌いな人のことを好きになることはまず不可能だと思っています。99パーセントくらいは不可能で、これはもう仕方がない。好きになることを諦めるしかない。できればその人とかかわりのない生活を送りたいと願うしかないかも知れないと思います。残りの1パーセントは相手がある時、とてつもなく自分を助けてくれることがあった、それで相手に対する見方が変わったというようなこともあり得ると思いますが、そもそも生理的に嫌いというのは、「この人はそういう人じゃない」と深いレベルで気づいているから嫌いなので、そういうことはあまり期待しない方が良さそうな気もします。

自分を変えれば相手が変わるとよく言われますが、自分に無理をかけて相手に笑顔を見せて、相手に親切をして…といったことを続ければそっちの方が苦痛でかえってよくないような気がします。

ここは、「自分はあの人のことは嫌いなんだ」と開き直ってやっていくしかありません。嫌いな人がいるというのは普通のことで、嫌いな人とかかわりたくないと思うのは正常な心の動きだと思います。

ただし、相手の不幸を望む必要はありません。他人の不幸は蜜の味で、嫌いな人が困ったことになっていたりしたら、ちょっと気分が晴れるという経験は私もないわけではありません。ですが、そういうのは美しくないですから、相手が自分と関係のないところで幸福になってくれるといいなあと思う心の在り方を、ある種の矜持として持ちたいものです。というよりも、嫌いな人のことで自分が心の中で汚れたことを考えるなんて、そっちの方が嫌です。「憎む」などというエネルギーを浪費する行為を嫌いな人のためにやりたくありません。

「嫌いな人を愛する」というのがこの記事のタイトルですが、「嫌いな人のことを嫌いのままでいい」のであれば、愛するってどういうことよ?ということになります。タイトルと内容が矛盾しているみたいに思います。

愛には無数の形やパターンがあると思いますから、飽くまでもその一形態ですが、どんなに嫌いな人でも人間としての価値は自分と同じだけあるのだと認め、あんなに嫌な人にもその人のことを愛している人もいるのだと認める、すなわち人間として尊重する。できるだけ接点を減らして口もききたくないですし、顔も見たくないですが、それでもその人も価値ある人間で尊厳があるのだと、心の中で認めることも、一つの愛の形かなあと思います。表現する必要はありません。表現するために相手と接点を持たなくてはいけなくなりますから、表現しなくていいです。

ただ、心の中でそう思う、相手の人間としての尊厳を静かに認める。そのうえで敬遠する。そうすると敬遠の仕方が変わってきます。どのみち相手も自分のことを嫌いなことは想像に難くありませんが、敬遠の仕方が変わると、相手の敵意を逸らすことができ、無用なトラブルを減らすことになるのではないかなあと思います。

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