同じ「チャンス」や同じ「夢」は二度とない。違う花が咲く準備をする

チャンスの神様は前髪しかないとよく言われます。そのため、チャンスに気づいたらしっかりと掴まえなくてはならないともよく言われます。そういう意味では「ま、いっか。次がある」はより良い人生を歩むためには望ましい思考様式ではないように思います。正確に言うと、チャンスそのものは何度となく人生に訪れます。ただし、毎回違った顔をしてチャンスはやってくるので、理想的なチャンスを待っていると、チャンスを掴まえることができません。ちょっと理想的ではないなあと思う顔をしてチャンスはやってきますし、場合によってはピンチの顔をしてやってきます。後になって「ああ、あれはチャンスだったなあ」とか「あの時が転機だったなあ」とか思います。また、「ああ、あの時にああしておいて良かった」と思うこともあれば、「あの時にああしておけば良かった」と思うこともあります。

様々なケースがあり得ますが、いずれにせよ、目の前に立ち現われて来る現象がチャンスかピンチか、それとも単なる退屈で平凡な日常の延長線上かはその場、その場で判断がつきかねることが多いので、その時その時に集中して取り組む他はありません。そのようにしていれば経験上、チャンスはますます沢山来るようになるますし、ピンチをチャンスに変えていくこともできるようになります。そういう意味では、チャンスを生み出すことは自分ではできませんが、常にチャンスを掴まえる準備をして取り組むということはできますし、そうしていれば時々はしっかりキャッチすることもできます。

ただ、繰り返しになりますが同じチャンスは来ません。一度手放したものは帰ってきません。感情の揺れで自暴自棄になり、大切なものを破壊したり、棄ててしまったりすることは人生にはありますが、そういう時は「二度と帰ってこない」という覚悟を持たなくてはいけません。逆説的に言えば、違ったチャンスが来るということは経験的に分かるようになってきますので、冷静に判断して取捨選択ができるようになってきます。

更にもう一歩言うと、自分の器に見合ったチャンスしかものにすることができません。チャンスに相応しい自分になるということが必要と思います。無理に強引にチャンスを掴んでも、それは離れて行きます。手放さざるを得なくなることが起きます。過去の多くの歴史上の人物が無理に無理を重ねて権力を手に入れ、遠からず失脚していったのも、権力に相応しい自分になることができていなかったということと関係しているのではないかと私は感じます。

「夢」も同じです。ここで言いたいのは「夢をもう一度」という願望についてです。人生には必ず黄金期があります。それも何度も黄金期は訪れます。しかし、やがて黄金期は終わります。必ずそうなります。黄金期、全盛期は気分良く過ごすことができますが、それが終わっていくときに上手に終えていくということを考えなくてはいけません。いわゆる過去の栄光にしがみつき、もう一度あの時のようになりたい、あのころのように振る舞いたいと思っても、それはもう二度とないのだということを覚悟するのが人生ではないかという気がします。

ただし、人生には必ず救いがあるようにできているもので、「夢をもう一度」はないのだということを覚悟して生きていると、全く違った形の夢が花開きます。しばらく苦しい時期、つまらない時期、退屈な時期を耐えなくてはいけませんが、また違った花が咲いて活躍の場を得たり、愛する人と出会ったりします。そういう意味では、あまりよくない時期の過ごし方が大切かも知れません。不遇の時代に「あのころはよかったのに…」とばかり考えていると、次に花開く時のための準備が整いません。むしろ不遇を受け入れ、その時にこつこつとできることを無理なくやっていると、新しい幸福の形が見えてくる。そのように思います。

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