不遇の時期をどう過ごすか

生きていれば必ず不遇の時期が訪れます。不遇の時期は人生の一部とも言うべきもので、恵まれた時期とセットになっているものですから、絶対に避けるというような方法はありませんし、受け入れざるを得ない期間だと言うのがいいかも知れません。

また、幸福と不幸は隣合わせの関係にあり、幸があるから不幸があると考えるとすれば、不遇の時期は飛躍して人生の次のステージへ進むための大切なステップであると言うこともできます。だとすれば、不遇の時期はむしろ新しい人生を得るためのチャンスと見ることも可能です。

とはいえ、実際に不遇の時期を過ごしている時、私たちはそう簡単に「これは新しいステージへのステップだ。やったぜ」と思うことはできません。「何故だ…」と苦悶します。何が問題なのか、何が悪かったのか、誰のせいでそうなったのかと犯人探しをし、疑心暗鬼になり、人生に失望し環境を恨んでしまいます。

それは人の心の正常な動きとも思えますから、無理にそのような悪感情を抑え込むことはないですが、その感情に飲み込まれてしまっては困ります。自暴自棄になるか、「状況を打開する」という一見合理的な見解のもとに無理な解決法を選ぼうとします。無理な解決法はどこまで行っても無理ゲーですので、最後には帳尻を合わさなくてはいけなくなりますので、あまりお勧めできません。

不遇の時代は必ず訪れるのだとすれば、それは台風などの天災と同じですから、一つには姿勢を低くして困難が立ち去るのを待つという姿勢が大切になります。悪い時期はどうしても焦ってしまいますが、焦りは禁物です。状況の変化を待つということも立派な戦略です。また、必ず状況が良くなると信じることも大切です。信じることは一つのパワーです。特定の信仰を持つ必要はありませんが、祈るというのもパワーの源になります。じっと信じて祈ることは、後になってみると大変に貴重で得難い経験だったと気づくことが多いはずです(特定の信仰は関係ありませんよ。念のため)。

ですが、手をこまねいていてはどうしても落ち着くことができません。人間は行動したい存在ですので、待つのは苦手です。とはいえ積極的に動けるチャンスが来ない間は労多くして益少なし、無理がたたって心が折れるということも心配です。そういう時期はよく観察することが大切なのではないかと私は最近考えるようになりました。広い意味では勉強する、学ぶ、練習するなどの地道な努力も、観察です。歩いている人をよく観察し、どんな表情で、どんな服を着て、どんな歩き方をして、どんなものを持っているのか。こういう人間観察は、いずれチャンスが来たときに周囲に喜ばれる存在になるためのいい勉強になります。外国語を勉強したり、パソコンのスキルをアップさせたり、楽器の練習をしたり、運動をするというのも含まれます。

それらの勉強や練習、訓練は直接には他者評価を得ることができません。ですが、不遇の時代に評価されようとしてもなかなか難しく、突拍子のないことをやらかして注目されて忘れられていくという残念なことにもなりかねません。むしろ、他者評価を得られないけれど、長期的に見て少しずつ効果を発揮するようなこと、コツコツやって身につけるようなことに力を入れるのも方法です。前述と同じになりますが、これも立派な戦略と言えます。人間観察もコツコツと続けていかなくては身についていきませんから、むしろ不遇で、どちらかと言えば暇な時間のある時に少しずつやるのに適しています。

そのように思うと、不遇の時代は決して悪い時期とは言えません。むしろ不遇を歓迎し、来るべき時に備えて自分を磨けるいい時期だと思えるくらいになるのがちょうどいいのではないかなあと思います。

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