「別れ」や「終わり」を受け入れると少し幸せになれるかも知れない



人間関係には必ず「別れる」時が来ます。家族とはいずれ死に別れます。また、友人とも別れて行きます。進学先が違えば少しづつ疎遠になるかも知れません。就職先も違うと、ますます共通の話題がなくなっていきます。というよりも30代40代であれば同じ業界の人と話すことの方が大切になっていきます。そのため、古い友人とは少しづつ疎遠になっていきます。他にも出世したり、独立したり、あるいは出世も独立もしなかったりで価値観や関心の向く方向に違いが出てきますから、古い友人とは話せることがなくなっていきます。

友人と別れる、或いは疎遠になるということは寂しい、哀しいことです。しかし、疎遠になることを恐れ、いつまでもべたべたとつきあいを継続しようとすると、却って互いに煩わしくなってしまい、いい結果を生みにくいように思います。話すことがないのに、いろいろと誘っては飲みに行ったり、食事に行ったりしてもそれは時間の無駄に感じられてしまうこともあるかも知れません。働き盛りの人にとっては友人に会うよりも、仕事をしなくてはいけません。頻繁に会うということがなかったとしても、心の中でその人のことを友人だと思えば友人です。ですから、環境的に疎遠になる友人とは無理に関係を続けようとせず、なりゆきにまかせているのが一番いいのではないかとよく思います。年を取って何十年かぶりに会うことがあってもいいかも知れません。その時にしみじみと、或いはじわっと「あー、友達っていいなあ」と思えればそれで充分ではないかとも思います。スタンドバイミーみたいな感じです。

「終わり」もそうです。今、自分がやっている仕事、関わっているプロジェクト、趣味の会、勉強会、なんでもそうですが、やがて終わりにしなくてはいけない時が来ます。仕事はいずれ引退します。プロジェクトはいずれ終わります。というか、終わらせなくてはいけません。関係者を生涯にわたってプロジェクトに拘束することは有意義なこととは言えません。趣味の会や勉強会などでも、会そのものを終わらせるということもあるかも知れないですし、あるいは自分は引退して後続に後を託す、ということもあるかも知れません。そういうことを受け入れることができない場合、そこにしがみつくことになってしまいます。それは傍から見ていて美しいものではありませんし、本人の心中も不安で穏やかなものではないと思います。ですから、時が来れば、自然と譲っていく、離れていく、潮時というものを見て行くということがよりよい人生を生きるのに大切なのではないかと思います。

そのような潮時が来ているかどうかはきちんと取り組んでいれば気づきます。自分の関心が違うところに行ったり、周囲から関連する話題があんまり来なかったりすることで気づいていきます。周囲から関連する話題が来ないとなると、やっぱり寂しいですが、そういうのは短い期間です。むしろ無理に関わろうとせずに、流れに身を任せる感覚で生きていると、人生の次のボールがやってきます。誰かが新しい話を持って来たり、協力を依頼されたり、歩いていて「あ」と思うことに出会ったりします。大抵の場合、そういうボールは自分にとって理想的な感じでは飛んできません。なんとなく打ちにくい、ちょっと負担になりそうな、或いは見劣りしているように感じるボールが飛んできます。ですが、精彩に欠くボールを輝かせるのは自分なんだと思って打ち返す、ということがよりよい人生を生きるための大切なことの一つなのではないかなあと最近はよく思います。

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