ネヴィル・シュート『渚にて』の救いなき人類滅亡

第三次世界大戦が起き、北半球の強国が核ミサイルの撃ち合いをし、北半球は人が住めなくなってしまいます。北半球で暮らしていた人の中には南半球まで逃げてくることができた人もいましたが、大半は死んでしまいます。人が住めないということは、他の生き物も住めません。北半球は死の世界になり、魚もいない、鳥も獣もいない無機質な世界に変貌してしまいます。

先進国、または準先進国として生き残っているのがオーストラリアです。オーストリアリアの人は当面は安心です。人類再建の使命を果たさなくてはいけません。しかし、放射性物質がじょじょに南へと飛んできます。地軸の傾きがあるために季節の変化によって寒気が北上したり南下したりするので、その波状攻撃で少しずつ南半球も放射線物質により汚染されていきます。もう他に行くところはありません。

北半球に生きている人はいないのかと、いろいろサーチをしてみると、無線信号を発信しているエリアがあります。危険な北半球に決死隊が潜水艦で生きている人がいるかも知れないと探しに行きます。実際に現地に乗り込むと、コーラの瓶が針金かなにかにひっかかり、風に揺られて時々無線機にぶつかっていただけだったことが分かります。希望は全くないのだとはっきりします。

オーストラリアの政府は人々に自殺用の毒物を配ります。どのみち助からないのだから、自分のタイミングでどうぞというわけです。文明は最後まで機能しようとします。電車が動きます。ラジオ放送があります。レストランが開いています。ガソリンスタンドもやっています。ですが少しずつ、物資とエネルギーがなくなり、人も減っていくので、それらは機能しなくなっていきます。この状態になっても働いている人は偉いです。

果たしてどのような最期を迎えたいかをこの作品は読者に問いかけています。どうせ明日はないのだと思ったとき、それまで保っていた矜持を最後まで大切に守り切ることができるかどうか、職業人としての矜持、家庭人としての矜持、社会人としての矜持、或いは人間としての矜持を持って最後までいけるかが問われます。人がいなくなるわけですから、死して名が残るということもありません。飽くまでも自分自身に対して恥ずかしくないかどうかが問われます。

恐ろしい内容です。最後に逆転とかありません。淡々と人類が滅亡していき、残された人は淡々とそれを受け入れ、残された自由である、自殺のタイミングを選んで死んで行きます。読み終わったら暗くなります。

広島と長崎の放射性物質はバクテリアによって分解されたという話を聞いたことがあります。そのため、同様の事態が起きても意外と生き延びられるかも知れません。『博士の異常な愛情』的解決策もあり得なくもないような気がします。とはいえ、核の冬みたいなのが何百年も続いたらダメそうな気がします。深海で地中から湧き出る熱水を頼りに生きる深海魚くらいしか生き延びられないかも知れません。考えれば考えるほど悲しくなるので、もうここでやめておきます。

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