遠藤周作『イエスの生涯』で福音書をもう一歩深く理解する

新約聖書に入っている、いわゆる四福音書は通して読んでもどういうことなのかよく分かりません。細部に関する説明が書かれていないだけでなく、前後関係が不明なこと、何を指しているのか分からないことがたくさん書かれているので、はっきり言ってちんぷんかんぷんで意味不明です。イエスの頭に油をかける女が出てきたり、ガダラの豚が群れを成して湖に飛び込んだり、シュールすぎます。「福音書は壮大な文学」みたいに言う人もいますが、あんな意味不明な作品が素晴らしい文学作品だとは私には思えません。日本で福音書を読む場合は、ラテン語→英語→日本語と何重にも翻訳されているという部分を差し引く必要があるかも知れないですが、たとえそうだとしてもあまりに大幅に違うということもないでしょうから、私には不親切な読み物に思えて仕方がありません。

想像ですが、遠藤周作さんも同じ思いを持ったのではないかと思います。『侍』では、主人公がカトリックの教えに触れて、そんな奇怪な物語の男を信心することが信じられないというような感想を持ちます。私も同じ感想です。

遠藤周作さんの『イエスの生涯』ではそういった不明な部分、奇怪で説明のつかない部分に分け入り、詳しく検証し、分析し、聖書に対するインテリジェンスを発揮してくれています。福音書に書いてあることが、一体どういうことなのかを西洋の学者の見解も交えて、著者の知見と結論を述べてくれています。福音書に対する理解が深まり、違和感、意味不明な感覚がだいぶ減ったので、そういう意味では一読して良かったと思っています。もちろん、遠藤周作さんがこの著作の中で述べているように、遠藤さんの人生を投影して書かれているものですので、そこはそういうものだと思って読まなくてはいけません。もっとも、自分の人生や心を投影しないものを人は書くことができません。このブログもそうですし、その他の全ての本、文章、記事もそうだと私は思います。ですので、「私は中立に淡々と述べただけだ」と言う人の書く物よりも、「自分の人生を投影している」と書いてる書物の方が正直で、その分、信頼できるかも知れません。

遠藤さんが取り組んだ最大の疑問は、イエスの弟子たちが、イエスの死後、命をかけて布教に取り組んだのは何故か、ということです。イエスが逮捕された時、弟子たちは驚いて逃げてしまいます。しかし、四散したわけではなく、エルサレムの外のいずれかに固まって身を寄せ合っていたようです。更に一部の弟子たちはイエスの審問の場に同席しており、その一部始終を見ています。遠藤さんが疑問に思うのは、なぜ、一部始終を見た弟子が逮捕されなかったのかということです。弟子のペトロ、またはペトロに代表される複数の弟子たちはユダヤ教会と取引し、いわばイエスを売ることで身の安全を得た可能性があることを遠藤さんは指摘しています。

もしそうだとすれば、イエスの死後、弟子たちが命の危険を省みずに布教したことの説明がつきません。見捨てた師匠のことは早く忘れて新しい人生を歩むと考えるのが普通です。しかも、ペトロに代表されるように、イエスのことは知らない、私と彼は関係ないと言い張って難を逃れようとする心の弱い人たちです。或いは、自分は何とか助かりたいと願う普通の人です。

遠藤さんはイエスが十字架にかにけられた時、最後の言葉の中で決して弟子たちを非難しなかったことをその理由として考えています。普通だったら自分を見捨てた者に呪詛の言葉を吐いて死んでいくものかも知れません。しかし、イエスは最期まで愛の言葉を説き続け、死に至ります。完全な愛とは何かをイエスは自分が十字架にかけられることによって証明したと言うこともできるかも知れません。弟子たちの心の中に感動とイエスを見捨てたことへの後悔が広がります。この時の心の動きが弟子たちを大きく変化させ、不屈の伝道師へと生まれ変わったのだと遠藤さんは考えます。

いろいろ理解できてくると福音書はおもしろいです。イエスがエルサレムに入り、逮捕され、審問を受け、ピラトがイエスの死刑を避けようとするもののうまくことが運ばず、ゴルゴダの丘へと十字架を担いで歩かされる場面を頭の中である程度像を結ぶようになると、その圧巻さ、ドラマチックさを感じられるようになってきます。

遠藤さんが描くイエスのイメージ、またはイエスがこの世に来たことの意味についての考察などは、他に『深い河』『おバカさん』『死海のほとり』『沈黙』『キリストの誕生』などを合わせて読むことでだんだんわかってきます。そのため、『イエスの生涯』だけで全てを理解することはできません。まず、ストーリーとしてイエスがどんな人なのかという像を頭の中に結べるようにするには『死海のほとり』を読むのがいいと思います。「無力で無能だが、弱い人をただ愛するイエスキリスト」の姿は、福音書に書かれている数々の奇跡、即ち合理的に説明のつかない出来事に対して、遠藤さんなりの解釈を加えて、それでもイエスは「愛」だけを説くという深い意味を持つ人だったということが描かれます。理解しやすいです。その上で『おバカさん』『深い河』『キリストの誕生』の順番で読み、実は最後に『沈黙』を読むのがいいのではないかなあと思います。これは私見です。


関連記事
遠藤周作『鉄の首枷』の小西行長の裏切る人の心理

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.