遠藤周作『沈黙』の日本と西洋と矛盾の解消

遠藤周作さんの『沈黙』はこれまで何十回も読み、新潮文庫がぼろぼろになったら買い換えるというのを三、四回繰り返しました。この作品をざっくりとちょっと乱暴なくらい簡単に要約するとすれば、西洋人が日本に挑戦して敗北する話です。遠藤周作さんは10歳の時に神戸でお母さまの命令で洗礼を受けていますが、内心、極めて強く納得できていなかったということがよく分かります。遠藤周作さんの作品はほとんど全てが「キリスト教は嫌いだが、キリスト教棄てられない」という二律背反を納得できる形に収めるということが主題です。

なぜそれほどキリスト教が嫌いなのかは、想像するしかありません。正面切って西洋が嫌いだと言い切っている作品なら『アデンまで』と『青い小さな葡萄』が思い当たります。ただ、その二つの作品で著者が憤っているのは人種差別に対してです。フランスに留学したことと当然ながら強い関係があります。一方で、キリスト教が嫌いだと正面から書いているものは、ちょっと見当たりません。そのため、あてこすりのようなことをひたすら書き続けているという印象があります。

キリスト教がこんなに嫌いなのに否定できないのは、お母さまがキリスト教を心の支えにしていて、遠藤周作さんがキリスト教は自分とお母さまを結ぶ絆だと感じていたからだと一般には理解されていると思います。そうかも知れません。しかし、母と子の絆にそのような媒介は必要なのだろうか?という疑問が私にはあります。人にもよるでしょうけれど、母子は通常、直接結びつくものではないかという気がして、そこにおそらく遠藤さんの、たぶん、本音中の本音の苦しいところがあるのではないかと思います。

これは大変に品のない想像なのですが、私は神戸時代にお母さまとカトリックの神父さんの間で何かあったのではないか、遠藤さんはそれを知ってしまったのではないかという気がします。これは単なる品のない想像ですので、批判されたら謝ります。

遠藤周作さんの作品をざっくりと時間軸的に追うと、『アデンまで』と『青い小さな葡萄』には西欧に対する深い憎悪、人種差別に対する憤りがあります。『白い人・黄色い人』では憎悪とともに無力感が漂います。『海と毒薬』ではむしろ内省的に日本人の心の問題を扱います。しかし、著者の心理には復讐心があるように私には感じられます。『沈黙』は、いわば日本の完全勝利です。完膚なきまでに叩きのめしたとすら言っていいかも知れません。その後、著者の内面に変化が訪れたと思うのですが、キリストイメージの確立、遠藤さんの考えや好みに合う、遠藤さんの内面の矛盾を解消するキリストイメージを作り上げようとします。そのため、ガストンさんのような人が登場します。ただ、私にはガストンさんのような「おバカでお人よしで人畜無害で心優しくエゴを出さない外国人」の姿は、遠藤さんがフランスで求めらていた姿なのではないかという気がします。現実生活でそのような人間の役割を負わされるのは非常に辛いです。自分は内面とエゴと欲求のある人間なのだ。いい人ばかりやっていられないのだ。と叫びたくなるはずです。

そういう意味では、キリスト教とフランス留学という自分の運命、または人生に対する異議申し立てを書き続けてきたのではないかなあと私は思います。

『深い河』は遠藤さんの宗教論の完成形、結論というような形で語られることが多いです。ですが、私には都合よくいろいろなものを切り取ってきたつぎはぎの作品に見えてしまいます。異議申し立て以上の何かを描こうとされたと私は思いますが、結果としては異議申し立ての念押しみたいな作品になったと思っています。その異議申し立てを美化するために成瀬美津子が登場します。『深い河』での成瀬美津子の心境の変化は私には付け焼刃に見えます。インドの河で沐浴して人生観が変わるというのはお手軽すぎます。

『沈黙』の話を書くはずが全然違う話になってしまいました。遠藤周作さんの作品に対する批判ばかりになってしまいましたが、私がどれほど熱心に読み込んだかをお察しいただき、おゆるしください。

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