ウンベルトエーコ『薔薇の名前』の本と毒と笑い

ウンベルトエーコ先生の『薔薇の名前』はヨーロッパ中世の歴史に対する深い造詣によって支えられた凄い物語だと言われています。あんまり深いので普通の日本人にはどこに知識が生かされているのかよく分かりません。でも多分、ディテールがめちゃめちゃしっかりしているのだろうと思います。知識がなくても楽しめる本です。身もだえするほど面白いです。素人でも玄人でも楽しめる本です。

中世のいずれかの時代の、ヨーロッパのいずこかの物語です。主人公の修道士の若者が師匠と一緒に旅をしていて、ある時、とある修道院に辿り着き、しばらく寄宿させてもらいます。修道院で暮らす修道士の人々は、あんまり尊敬できる感じではありません。だらっと生きています。聖書を書き写すのが日常の仕事です。ノルマも特にありません。わりと楽して生きていて、そんなに規律正しくもありません。修道院の年老いた偉い人たちは若い修道士に対していろいろ怒っています。「ワインを飲んでもならない」という規則があったのに、最近では「ワインを飲み過ぎてはならない」と言わなくては誰も規則を守らない、それだけ若い人がなってないなどとにがにがしく思っています。

「最近の若い連中は…」という愚痴は古代ギリシャの文献にも出てくると言います。「最近の若いやつは…」は時代を超えた普遍的な愚痴のパターンだということが分かります。私もおしゃべりばっかりしている学生を見ると「最近の若いやつは…」と思いそうになります。そしてそのたびに「あ、これは普遍的な愚痴のパターンだった」と思い直します。学生を笑わせるつもりでジョークを言ってすべった時はかなり落ち込みます。その時に私は「今の若い人はセンスが悪いから俺のジョークが理解できなかったんだ」と思うことで自分を防衛しようとします。それから、「あ、そうだ。ジョークが面白くなかったのはジョークを言った人間の責任だ」と思い直します。「最近の若いやつは…」は絶対に言わないと誓っていないと言いそうになるので要注意です。でもなんだかんだ言って教師は自分の学生には甘いものなので、学生がちょっといい子にしていると過去の悪い態度とかすっかり許してしまいます。教師なんて簡単でいちころな存在です。

話が脱線しましたが、イシグロカズオさんの『忘れられた巨人』に出てくる修道院の人たちもいわば世捨て人、悪い言い方をすればちょっと社会不適合な感じの人たちみたいに描かれていますが、エーコ先生の『薔薇の名前』の影響を受けたのではないかという気もしなくもありません。

滞在中に殺人事件が起きます。水槽から両足を出して死んでいるとか、金田一耕助の『犬神家の一族』みたいな死に方をしています。他にも何人も死人がでます。でも死因が全く分かりません。外傷がありません。自殺というわけでもありません。どうして死んだのかさっぱり分かりません。完全犯罪です。読者もこの段階では首をひねるしかありません。

師匠が事件を解くカギをいろいろ集めて最後には犯人を突き止めます。犯人はこの修道院で一番偉い老人です。老人がある本に毒を塗っていました。その本を読んだ人はページをめくる際に唇に指をあて、指を少し湿らせてページをめくります。それを繰り返すうちに毒がその人の体内に入り込み、本を読み終わってしばらくすると死んでしまいます。外傷も残りません。解剖でもしないと分かりませんが、法医学とか司法解剖とか多分まだない時代なので、犯人の自白がない限り、死因は永遠に分かりません。この完全犯罪の手法は池澤夏樹さんの『マシアスギリの失脚』でも政敵の暗殺方法として使われています。作品の中で「ネタ元は『薔薇の名前』だ」と読んだことのある人にだけ分かるように書いてあります。他に『王妃マルゴ』という映画でも同じ方法で王様が死んでしまいます。『マシアスギリの失脚』では二時間くらいで死んでしまいますが、『王妃マルゴ』では何日もかかって死んでしまいます。そんな細かいことはどうでもいいと言えばどうでもいいです。

問題は動機です。毒が塗られていた本はアリストテレスの喜劇に関する本です。アリストテレスは笑うことは健康にいいと書いています。しかし、修道院では笑ってはいけないという規則があります。アリストテレスのような超有名なギリシャ時代の書き手が「笑いなさい」と書いていることがバレると結構まずいです。一番いいのは本を捨てることですが、人類共通財産である本を捨てることはためらわれます。従って、本を読んだ人、内容を知った人だけを確実を殺さなくてはいけないという結論に達し、本に毒を塗ったというわけです。

『薔薇の名前』は人類史上最高の推理小説みたいな言い方をされます。その通りだと思います。読んでいる時は面白すぎてしびれます。早く続きが読みたくて身もだえします。でも分厚いので読み終えるのに時間がかかります。本に書いてる字も小さいです。でも面白いので問題になりません。読み終えるのがもったいないと思ってしまうので、もっと長い物語になっても文句はないくらいです。



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